OELキャンペーン 69(山中教授のプロパガンダ)
2005
324(木) レーザー核融合パイオニア物語 28

大阪大学工学部電気工学科に昭和38年山中研究室を開設したが、その頃の学生諸君を中心につくられた同窓会に泰山会がある。歴代の研究員はじめ大阪大学レーザー核融合研究センターにかつて属した人達が会員で、現在では総勢千名を越える可成りの人数になる。これらの人々こそレーザー研究開発のイロハから慣性核融合研究やレーザー応用分野に誠心誠意従事した開拓者達である。年代順にこれらのメンバーの思い出と心映えを取り上げることにしたい。

昭和33年私が助教授時代に博士課程に在学した帝塚山短期大学教授の和田弘名君は昔々の東野田学舎時代の山中研究室の様子を回想して次のように述べている。
「昭和3233年当時は、山中先生と数人の学生のみの助手も居ない研究室でしたが、山中先生を初め多数の方々の御努力の結晶である現在のレーザー核融合研究センターを仰ぎ見るとき、全く感慨無量のものがあります。山中先生みずから、学生と一緒に徹夜の連続実験を直接指導されていたのが、昨日の事のように思われます。当時は、直線型プラズマ放電の不安定性を、流しカメラ、ケルセルカメラ、ロゴウスキーループ等で測定したものでした。予算が無くてすべて学生の手作りの装置で、精度、信頼性など、今考えると随分、山中先生を悩ませた事と思いますが、暖かく御指導頂いたものでした。
1956
年のKurchatovの発表したプラズマ放電と熱核融合の試みにいち早く着目され、21世紀を目指したプロジェクトをスタートさせておられた初期の山中研究室に参加させて貰えた事を非常に幸せに思っております。」

第二代のセンター長を継いでくれた中井貞雄君には山中語録の一文がある。
「私の記憶に強く印象づけられた、山中先生語録をお読み下さったら、山中研究室、さらにはレーザー核融合研究センターの人間的ふれあいの一端なりとを感じていただけるのではないかと思います。

『人間苦労していいことはない』
高校、大学と柔道部で過ごしてきて、苦しい鍛錬が人間をきたえるのだと思いこんでいた身にとって、しかも勉学、研究への意気込みも若干は持って入った大学院で、この言葉はいかにフレッシュに響いたことでしょう。しかし、それではと気楽にやれるのかと思ういとまもあらばこそ。実験装置の製作、春秋の学会、その間の研究会、論文の作成と修士課程1年から息つくひまもない日々でした。この語録の真の意味は、これくらいのことが苦労であってはいけないということなのでしょう。補足としての語録に、連日連夜の実験にくたくたになっている、まさにそのときに語られた『仕事は楽しくやるものである』というのがあり、これで豁然と悟らされたわけであります。

研究室も5年目を迎えた頃のこと、形も整い、研究成果もおいおいに出だしました。
東レ学術奨励金が山中先生に与えられ、研究室全体がうって一丸となっていたころ、『Laboratory of the world, for the world』が我々若手が鼓舞され、感激に身をゆだねて日夜研究に励んだ原動力ともなった語録です。交替で炊事当番をやり、同じかまのめしを食べながら、夜遅くまで輪講をやる。一方で学内レガッタにチームを組んで出場し、そのための練習にせっせと桜宮のボート部艇庫にかよったり、イタリアの花見と称してナポリやミラノという京橋かいわいの安いバーに飲みに行っては、帰るさきが自宅でなく研究室で、それからまた仕事を始めたりというような生活でした。

若い研究の徒に大きな夢と希望を与えた言葉でした。

『人のやらないことをやる  人のやっていることはやらない』
レーザー核融合研究が本格的に始められたころ、山中研が出来て10年目頃です。今年が山中研20周年とセンター創設10周年ですから丁度センター創設の頃でしょうか。機会ある毎に先生の口をついて出た言葉でした。まさにある分野での先進的な仕事にとりかかるために、自らに課した、重大な矜持でしょう。目先の安易さに、ときとして流れそうになる研究者らに与えられた具体性をもった哲学でありました。今も生きている研究センターの信条です。

『人、人、人』
何のために仕事があり、事業があるか。言うまでもなく世のため人のためです。そして仕事なり事業を進めるもの、これも人であります。人のために行う事業は、それを支える人をも育て、はぐくむものでなければならない。すべての根底はやはり人にある。最近しばしば語られるのに『天のときは地の利にしかず、地の利は人の和にしかず』というのがあります若い研究者、技術者が青春をかけてとり組む仕事には、人のためになる意義があるとともに、力を合わせて取り組む若い人々を育てるものでなければならないということでしょう。

語録というものは、それを発する人と、それを自分流に解釈して受けとめる人と、そういうものが渦巻いて形づくる集団の中にあってはじめて生き生きとその輝きをもつものです。そしてこの渦により集団が生き、それを構成する個々人の成長、発展があるものでしょう。それこそが大目標である核融合エネルギー開発の達成と同じように重大な意味のあることでありましょう。我がセンターはそのような研究集団であると私は信じております。」

プラズマ研究所の客員部門でレーザー核融合研究の扉を開いた当時の模様を山中龍彦君が伝えている。

「昭和46725日、それは我が国のレーザー核融合研究史上最初の記念すべき日である。この日、山中先生が客員教授であられた名古屋大学プラズマ研究所のTPL実験室において初めて固体重水素へのレーザー照射により核融合中性子が観測されたのである。またその後数年間にわたり世界的ブームをもたらしたレーザーによるプラズマの異常吸収が発見される契機となった日でもある。このような記念すべき実験を山中先生の陣頭指揮のもと、自らの手で一つ一つ作りあげた装置で行ったことは私にとって生涯忘れ得ない得難い経験であった。
この日の前後数年間に山中先生をはじめプラズマ研究所に常駐し実験を共にした姜衝富君、吉田国雄君、当時大学院学生であった脇 素一郎君、島村和典君と共に経験した思い出である。

昭和37年以来山中先生のもとで進められていた大出力レーザーの開発とこれを用いたプラズマ核融合の研究が高山副所長に認められ、昭和445月に山中先生がプラズマ研究所客員教授に迎えられ、レーザー核融合の実験が始まった。しかし当時、大部分の研究者はレーザーで核融合など出来るとは思ってもいない時代であったし、基礎実験の客員部門であったため、山中先生の『客員期間中に必ず核融合中性子を発生させる』との公約にもかかわらず他の基礎実験部門の装置と同様、単なるプラズマ実験をかかげたTPL(レーザーによるテストプラズマ)と名付けられた。名前はどうであれ、やるべきことはやろうと云うことで、大学紛争の真っ最中ではあったが阪大で出来る準備作業を終え、4411月より助手になって1年目の私と姜、吉田両君とがプラズマ研に常駐することになった。最初の仕事は実験室に用意された機械ショップの材料置き場であった本館1階の4コマと2コマの部屋をレーザーの実験室に改修することであった。3カ月ほどかけ改修が終わり、翌年3月より三菱電機中央研究所との共同研究で開発した阪大の5段増幅ガラスレーザー『激光I号改』の設置を開始した。与えられた予算が実験室の空調設備、レーザーの冷却水設備等含めて38百万円であった。ソビエトのバゾフ先生の評価では2億円ということである。レーザーの調整や固体重水素氷の製作に1年間四苦八苦した。

レーザーそのものではXeフラッシュランプが破裂したり、寄生発振がおこり十分な出力が得られず、1ナノ秒パルス発生用のポッケルスセルに印加する高電圧パルススイッチ、レーザートリガースパークギャップ(LTSG)の開発に明け暮れる毎日であった。ある時、ヨーロッパからの見学者が来室中にフラッシュランプが破裂し、レーザーハウスから冷却水が噴出し大恥をかいたこともあった。この苦い経験がフラッシュランプ改善努力のトリガーとなり現在使用している長寿命で信頼性の高いフラッシュランプへとつながったのである。また寄生発振防止として、つい最近まで炭酸ガスレーザーに用いられていたプラズマユニガイドスイッチの発明にもつながった。

今では安価に手に入るレーザー光集光用の口径5センチのF/1非球面レンズが入手出来ず苦労した。当時、我が国では非球面レンズは全く製作されていなかった。日本光学の研究所に製作以来をした所、300万円と言われ、あまりの高さに諦め、球面収差のないレンズとして教科書にのっている2枚組のルボセツレンズを採用した。数ショットで第2レンズの中心にダメージが入り使いものにならなくなるという次第。このダメージはガラス面よりの反射光がレンズ中心に集光して生じたことが明らかになり、急遽第2レンズの中心に穴をあけ、実験に使用することになった。

このようにしてレーザーと集光レンズの方は片づいたのであるが、肝腎の固体重水素片製作には丸1年間ほど時間を費やした。低温センター長の益田先生に御無理を申し上げ使いたいだけ使える便宜を図っていただいたのであるが、当初は大量のヘリウムガスを回収できる設備がなく風船で回収していたため、112時間程度しか実験が出来ず、長さ12ミリの霜状のものしか出来ない状態が数ヶ月続いた。ベビーコンプレッサーと中古のプロパンガスボンベ6本よりなる回収装置を製作し、週230リッター程の液体ヘリウムを使えるようにした。この結果昭和46年の6月には2ミリ角で長さ1センチ程度の透明な固体重水素が出来た。これで中性子発生実験の準備が完了したのである。

この間重水素化ポリエチレン等を用いプラズマ生成実験を並行して行い、レーザー散乱、イオンコレクター、Kエッジフィルター法によるX線スペクトル計測等によりレーザー生成プラズマの電子密度、温度、電離度等の測定を行い、診断技術の開発研究を進めた。

さていざ固体重水素による実験が出来る段階になって低温センターへのヘリウム液化機がオーバーホールで1ヶ月近く止まるという困った事態になった。しかし、山中先生をはじめ全員この時を逃してはとの気持が非常に強かったため、無理算段、1リッター4千円の液体ヘリウムを川崎港(液体ヘリウムの陸揚げ港)より日本酸素に運ばせ実験を続行、ついに首記の日に核融合中性子の発生に成功したのである。この日は液体ヘリウムが夜の8時頃研究所につき、9時頃より実験を開始し夜中の12時から2時頃までの実験で約104乗個の中性子が鉛で厳重にカバーされたプラスチックシンチレーターにかかったのである。この瞬間私自身どの様に感激したのか思い出せない。この日は我々の2年間にわたる努力が報われた素晴らしい1日であった。

山中先生はこの日のために阪大の評議員を途中で辞退され、毎週23日プラズマ研に泊まり込み我々と共に夜の23時まで実験にあたられた。また、プラズマ研常駐者の生活を思い計ってポケットマネーでダイハツのフェローマックスの新車を買ってあてがわれた。私他一同この車で運転の練習をしたのである。その後は研究も順調に進み、パラメトリック崩壊不安定性による異常吸収が発見されると共にこの過程により励起されたイオン音波によるブリラン散乱が重水素と軽水素で同位体シフトを持っていることも観測された。

その後レーザー工学研究施設が阪大に設置された昭和47年の9月に山中先生は研究施設の充実を図るため3年半に渡る客員教授を終えられた。私はその後もプラズマ研究所にお世話になり助教授に昇任し、なお山中先生の指導のもとで、当初命名されたTPL実験部門に相応しいレーザーとプラズマとの相互作用の実験を続行した。昭和518月にレーザー核融合研究センターへ帰任させて頂いた。

学部学生時代より現在に至るまで20年余山中先生の御指導を得ているが、このプラズマ研究所時代に受けた指導が最も血となり肉となっているように思われる。」
                            (つづく)

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山中 千代衛