山中教授のマニフェスト(OELキャンペーン347

2009127 () プラズマ研究所OB会とその昔話

さる1128日昔懐かしい名古屋覚王山通りのホテルルブラ王山で約60人の出席者が集まりプラズマ研OB会が開かれた。世話人は上村鉄雄、幹事は松岡啓介のお二人で準備された。伏見康治先生も去年亡くなり。高山一男先生も関口 忠、伊藤 博、岡本耕輔、奥田孝英、長尾重夫の先輩、旧友も不帰の人となり思い出の募る一日であった。まさに昭和は遠くなりにけりである。

それでも松浦清剛、市川芳彦、伊藤智之、大林治夫、佐藤浩之助、佐藤徳芳、藤田順治、難波忠晴、毛利明博他の皆様と親しく話が出来て40年の昔に立返ってプラズマ研究草創期の活力ありし日々を思い出し誠に懐かしい一日であった。

今は昔昭和43年(1968)に阪大工学部は大阪市内の東野田から千里万博の開かれようとしている吹田の地に移転した。昭和38年(1963)に教授になり山中研究室を開設した。レーザープラズマ生成の研究を開始し、当時は東大宇宙研との関係も深く電磁衝撃波の研究やソーラフレーアの模擬、レーザーレーダーによる大気観測、半導体レーザーレーダーを内之浦でL3H-5ロケットにのせエアゾル観測を行なった。

一方大出力レーザーの開発にも着手し、He-Neレーザーをはじめルビーレーザー、ガラスレーザー、液体レーザー、N2レーザー、色素レーザーと手広く研究を展開し、COSPARIAEAMOGA、レーザー計測会議等に参加していた。

たまたま昭和44年(1969)高山先生の推薦で名大プラズマ研レーザー客員部門に初代吉永 弘先生の後任として参加することとなった。ちょうど完成したばかりの激光I号ガラスレーザー(1ビーム 10J0.2ns50GW )を持込んだ。スタッフは山中龍彦助手、斉藤善久助手、吉田國雄、脇 素一郎、奥村和典ら院生の諸君が逐次参加してくれた。動きやすいようにダイハツの軽自動車ミゼットもポケットマネーで用意した。

当時大学紛争が勃発中で、客員拝命をしおに大学評議員は辞退し、週の後半水金土日を名古屋で過ごした。この年の10月には前途有望の山口元太郎助手が紛争に巻き込まれて殉職した。色素レーザーの旗頭としてまさにこれからという秋であった。痛恨の極みである。この事件の弔い合戦のような様相で研究は進展した。

元々プラズマ研は磁場核融合が中心テーマであり慣性核融合はまさに新参者で不断に葛藤の的にされた。2年の努力の結果昭和46725日液体ヘリウムで凍らせた固体重水素ターゲットに激光I号レーザー光を照射して中性子の検出に成功した。

この時の新聞各紙の取扱は今から思うと驚く程真剣な大扱いで朝日、読売、毎日、中日、サンケイは各紙とも一面トップの記事を飾った。朝日など「レーザーで核融合に成功、名大プラズマ研、固体重水素に照射 中性子100300個確認、無公害エネルギー源への道」と10段抜きの熱の入れ方であった。

伏見先生はじめ高山先生も大いに喜んで頂いた。世界レベル以上に達したという評価が一般であったが、サンケイは宇尾光治教授の言を引いて実用化はまだ問題多いと記者ノートに書いていた。それはその通りである。

伏見先生は筆者が客員を終えて阪大に戻る時、当時の釜洞阪大総長にレーザー研究が阪大において継続出来るようにと助言の手紙を出された由、釜洞先生はそれをご覧になって大いに気に入られ、「伏見教授は数多い直系の弟子があるのにそれを差し置いて山中君の研究を推薦するとは流石である」と申され、早速文部省にレーザー研究施設の設置を上申された。

当時の文部省は研究に関しては大学支援機関の位置付けで大山 超研究官をはじめ手塚 晃助成課長、木田 宏学術国際局長にその要望はすんなり受け入れられた。近頃は文部科学省も政策実施機関の趣が強くなり競争的研究資金でもって研究者を駆り立てるようになってきた。まことに今昔の感に堪えない次第である。

何はさておき昔のプラズマ研究萌芽時代の湧き上がる熱気が今日の研究者に伝われば喜ばしい限りである。プラ研OB会を機会にレーザー核融合パイオニア時代の思い出の一端を申し述べた。誰にとっても若い日は懐かしいものである。

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山中千代衛